世界最高峰のワイン産地ボルドーの歴史

ボルドー

高級ワインを聞かれたら、ボルドーワインと答える人は多いことでしょう。フランスの南西部に位置する港町ボルドーは五大シャトーをはじめ、多くの名ワインが生産されています。今回はボルドーが世界でも最高峰の地位に君臨するまでの歴史をご紹介します。

 

 

ボルドーワインの発展にイギリスの存在は欠かせません。12世紀、ボルドー一帯を治めていたアキテーヌ公の長女エレオノールは、イギリスの国王ヘンリー2世と結婚し、ボルドーはイギリスの統治下となります。ボルドーで作られるワインはイギリス王室でとても気に入られ、イギリスの貴族にとって欠かせないものになっていきます。当時のワインは樽詰めであったため劣化が早く、新鮮なワインに価値がありました。ボルドーは港に面しており、内陸はジロンド川が広がるなど、ワインを輸出しやすい地域でもあり、ボルドーはワインで栄えていきました。

 

フランス・イギリスの100年戦争が終わり、ボルドーは再びフランスの統治下となります。次第にイギリスの影響が弱まると、オランダ商人がボルドー地域に入ってくるようになります。寒い地域に住むオランダ人は甘口のワインを好み、白ブドウの栽培を行うようになります。また、リキュール、スピリッツなど濃度の濃いお酒も造られました。当時の税制は樽単位で計算されていたため、かさの減るブランデーは好都合でした。さらにオランダ商人は、大量に生産・輸入できるようガロンヌ川とドルドーニュ川の湿地帯干拓に尽力し、道路整備を行い、ボルドー地区のブドウ畑は拡大していきました。

 

このころ、ボルドーのワインがすべて同じではなく、特定のシャトーワインの品質が常に高いことから、格付けが始まります。シャトーオーブリオン、シャトーマルゴーなどの5大シャトーワインは高値で取引されるようになりました。

ワインが現在のようなガラス瓶とコルク栓で流通されるようになると、輸出はより盛んになりボルドーは好景気に沸きます。干拓事業も進み、貴族たちはブドウ畑を所有し豪華絢爛なシャトーは築きくようになりました。

 

ワイン貿易により好景気に沸いたボルドーですが、1789年フランス革命により一変します。貴族たちはギロチンにかけられ、所有物は押収・競売にかけられます。しかし、シャトー経営には維持費がかかるため、買い手は一部の資産家に限られました。それでもボルドーワインは多くの需要があることから、革命が収まるにつれボルドーに活気が戻ります。

 

1855年パリ万国博覧会におけるボルドーの格付けは大きな宣伝効果をもたらしました。アメリカやイギリスなどの大消費国はもちろんのこと、世界中にアピールすることができたのです。ボルドーワインのブランド価値、ひいてはフランス産ワイン自体の地位も引き上げたと言ってよいでしょう。

 

パリ万博での成功を収めるや否や、ボルドーは苦難の時代を迎えます。

ブドウ畑にフィロキセラやウドンコ病、ベド病などの被害が蔓延、畑は壊滅状態に追い込まれます。また二度の世界大戦による景気低迷から高級ワインが売れなくなり、シャトーを手放すオーナーも多かったようです。

 

ネゴシアンたちの尽力もありボルドーは活気を取り戻しつつありましたが、ネゴシアンによる不正も行われるようになりました。それがワインゲート事件です。ボルドーの多くのネゴシアンたちは安いワインで水増ししたボトルにボルドーのラベルを貼って販売していたことが公になったのです。ボルドーワインのイメージが損なわれました。このことからシャトーはワインの生産だけでなく瓶詰めから出荷まで一貫して行うようになります。しかし、生産には長けていたシャトーですが、販売に関してノウハウがありません。一度は信頼を失ったネゴシアンですが、ボルドーのシャトーにとっては重要な存在でした。シャトーとネゴシアンの信頼再構築と80年代グレートビンテージに恵まれたことなどにより、ボルドーワインは現在の地位まで回復しました。

 

ブルゴーニュのドメーヌは小規模で生産者がオーナーであることが多いのに対し、ボルドーのシャトーは大規模で会社組織化されており、資本家などがオーナーを務めます。日本人の感覚からすると、オーナーが直接生産したブルゴーニュワインの方が温かみや親しみやすさがあり好まれるかもしれません。ボルドーのワインは古代から需要が大きかったこともあり、ワイン造りを分業し効率を図った点もシャトー経営に至った要因の一つでしょう。大きな利益を得るためには大きな資本が必要となり、その裏ではさまざまなドラマが繰り広げられてきました。

いかがでしたか?歴史を知って今以上にボルドーワインを楽しんでいただけたら幸いです。