バロックの巨匠

 

カラヴァッジョの登場により、バロック時代初期はイタリアがその中心となる。

その後は影響を受けたフランスやフランドル、北方ヨーロッパでも勢いを増していくこととなる。

 

目次

  1. 対抗宗教改革の申し子ベルニーニ
  2. フランドルバロックの巨匠ルーベンス
  3. スペインバロックの巨匠ベラスケス
  4. オランダバロックの巨匠レンブラント

対抗宗教改革の申し子ベルニーニ

 

17世紀ヨーロッパでは絵画だけでなく建築や彫刻においても対プロテスタントを意識した作品が多く生み出されることになる。特にローマではその風潮が強くジャン・ロレンツォ・ベルニーニはローマの風景を一変させることとなる。

建築家として秀でた才能を持っていたベルニーニはローマ教皇ウルバヌス8世の指示を受け、カトリック教会の権威を示す多くの建造物の設計を行う。サン・ピエトロ大聖堂を始めとし、広場や噴水などローマの街並み全体を理想的なものに作り上げたベルニーニは教皇ウルバヌス8世から「ベルニーニはローマを必要とし、ローマはベルニーニを必要とする」とまで言れるほどであった。

また、彫刻家としても確かな腕を持っていたベルニーニは細やかな表情と衣服などの凹凸を精密に再現しリアルな質感を持つ作品を作り上げていた。

 

フランドルバロックの巨匠ルーベンス

 

フランドル(現在のベルギー全域を指す)ではピーテル・パウル・ルーベンスがバロック絵画を象徴する壮麗で躍動感あふれる様式をしていく。

父の亡命先であるドイツで生まれたルーベンスは10代で画家としての道を歩み始め、20代から約8年間をイタリアで過ごす。カラヴァッジョなどの流れを汲むローマ絵画を学んだ後、フランドルの宮廷画家となる。その後はフランドルへ帰国することになるが、当時のフランドルはまさに宗教美術製作ブームであった。一時はプロテスタント化が進んでいたが次第にカトリックが盛り返しを見せており、聖像破壊運動が行われていた背景から祭壇画を中心に多くの注文を受けることとなる。

当代きっての人気画家となったルーベンスは自身の工房に多くの弟子を抱えることになり、下絵を作成した後は弟子にその作成を任せ、最後の仕上げをルーベンスが行うことで多くの作品を世に送り出した。

またルーベンスの父親は法律家であったことから、幼少期からエリート教育を施され高い教養や堪能な語学力を持ち合わせていた。そのため後に外交官としても活躍することになり、後世の画家たちからは多大な尊敬の念を抱かれることになる。

 

スペインバロックの巨匠ベラスケス

 

カラヴァッジョの登場によりバロック時代に初期のヨーロッパ美術はイタリアが中心であった。更にその影響や経済の発展も相まって北ヨーロッパでも徐々に勢いを伸ばしていった。その一方でスペインは当時芸術においては後れをとっていた。当時のスペインはカトリックの影響力がとても強く、厳しい規制があったことから芸術文化は中々発展を遂げられずにいた。

1628年に宮廷画家であったディエゴ・ベラスケスが外交使節としてマドリードでピーテル・パウル・ルーベンスと出会うことで転機が訪れる。

ルーベンスと出会うことで彼から多くのことを吸収したベラスケスは二度のイタリア訪問でカラヴァッジョ風のタッチを身に着け、更には彼の写実主義をも超えるリアリズムを生み出した。宮廷画家であった彼は厳しい規制にさらされることがなかったため、自由な制作活動の下、多くの作品を生み出した。

彼の登場により、スペインでもバロック最盛を迎え芸術大国の仲間入りをすることになる。

 

オランダバロックの巨匠レンブラント

 

17世紀オランダにはオランダ美術史上最大の巨匠と言われるレンブラント・ファン・レインがいた。

レンブラントは若くしてその才能を開花させ、20代後半には主に市民階級をターゲットとした肖像画家として成功を収める。彼の画風はカラヴァッジョの影響を感じさせる重厚感があり、はっきりとした表情などが特徴である。

更にレンブラントは多才で歴史画を含む幅広いジャンルを手掛けていた。しかしながら17世紀後半になると時流の変化により顧客離れが加速していくこととなる。自身が浪費家であったことも相まって晩年には自己破産に至ってしまうなど波乱万丈な人生を送ることとなる。

 

<参考>

井野澄恵、井出創 『教養としての西洋美術史』 2019年 株式会社宝島社

木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養 名画の読み方』 2018年 ダイヤモンド社