争いから生まれた「わかりやすい美」バロック美術とは

17世紀のヨーロッパは宗教争いの真っ只中であった。

膨大な権力と財力を保持し、上流階級として優雅な生活を送っていたカトリックと、

それらを真っ向から否定しドイツの神学者ルターが中心となった抗議活動から生まれたプロテスタントとの間で対立が生まれていた。

 

目次

  1. 争いの発端とそれぞれの美術
  2. バロックの先駆者カラヴァッジョ

争いの発端とそれぞれの美術

 

堕落した生活を続ける聖職者に対して、多くの人が不信感を抱くようになり、プロテスタントの勢力は日に日に増していくことになる。

こうした状況から、「聖書にこそ権威がある」という考えのもとこれまでの宗教美術を否定していくことになる。

聖書のモーセの十戒の一つである偶像崇拝に背くという理由からカトリックの聖堂や修道院の宗教美術は破壊する聖像破壊運動を起こすことになる。

 

一方、信者や収入を大きく失っていたカトリックは大幅な打撃を受けていた。そこでプロテスタントに対抗すべく堕落した体制を変革しつつ、対抗宗教改革を進めることになる。ここで、宗教美術は崇拝の対象ではないため、偶像ではないという見解を示すことになる。

この結果、表現方法などに規制が入ることになり、こうした考えから生み出された作品は高尚さとわかりやすさを兼ね備えることとなる。これにより聖書中心のプロテスタントとは異なる、感情や信仰心に訴えかける作品が生まれ文字が読めない人々の心にも届くこととなる。

このような流れから誕生したのが「バロック美術」である。

バロックは「いびつな真珠」という意味のポルトガル語「バロッコ」が語源とされており、当時は過剰な表現としてネガティブな使われ方をされていたが、現代ではその時代を特徴付ける言葉として定着している。

 

バロックの先駆者カラヴァッジョ

 

カトリック教会が目論んだ、わかりやすい表現による大衆への布教とプロテスタントへの対抗。これに貢献し、バロック美術の原点とされているのがミラノ近郊出身のカラヴァッジョである。17世紀イタリアのバロック美術はカトリック信仰への帰依のため、古典的なアプローチと革新的なアプローチに二分されていた。

カラヴァッジョの画風は写実主義によるこれまでとは全く異なる革新的なアプローチであった。

20代前半にローマに移り住み、名門貴族出身のフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿の目に留まったことで枢機卿美術愛好家への作品創作活動を始める。サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会のコンタレッリ礼拝堂に描いた聖マタイ三部作でこれまでの決まり事とされていた「理想的な姿」を覆し「ありのままの姿」を描くことで名声を高めていくことになる。

このリアルさを追求した斬新奇抜なアプローチは冒涜として批判的な声が多く上がっていたが、多くの人がこの作品に興味を示すこととなり、結果的には本来のターゲットである大衆に元に届くこととなる。彼の描く聖人が等身大であるが故に大衆にとっては感情移入がしやすく、文字が読めない人々にとっても聖人を身近に感じさせること等から特に若い画家たちに大きな影響を与え、ローマに留まらず北ヨーロッパにまで追従者が誕生することになる。

しかし彼の作品の否定的な声が上がったのも事実であり、彼の生涯において批判的な声が止むことなかった。カラヴァッジョの革新的なアプローチが注目を浴びる一方でラファエロを継承した古典的アプローチも根強く浸透していた。更に1648年にフランスで美術アカデミーが創設され、ラファエロを頂点とする古典的アプローチが確立することでカラヴァッジョは二流画家として認知されていくことになる。

 

 

<参考>

井野澄恵、井出創 『教養としての西洋美術史』 2019年 株式会社宝島社

木村泰司『世界のビジネスエリートが身につける教養 名画の読み方』 2018年 ダイヤモンド社