メディチ家、金融と芸術
ルネサンス期、イタリアのフィレンツェで貿易と金融を業としていた「フィレンツェ家」は後にトスカーナ大公国の君主となる一族である。
<銀行業としてのメディチ家>
「メディチ」には医師と言う意味があり、元々は薬屋を営んでいたとされている。そして14世紀末に銀行業を営むようになり次第に財を成していくことになる。
メディチ銀行は、各支店独自の資本と帳簿を持たせ、法的に独立した組織体制をとりながら、それらをまとめて統括する本社機能を持ち合わせる二重構造での経営を行っていた。これにより支店単位での失敗を会社全体のリスクから切り離すことに成功し、徐々にその規模を拡大していく。そして、ローマ支店でローマ教皇庁との取引を取り扱うことになり、財と名声を掴むことになる。
<芸術への関心>
メディチ家は銀行業だけでなく、芸術においても多大な影響を及ぼすことになる。
14世紀ヨーロッパで開花したルネサンス文化興隆を支えたのがこのメディチ家である。
教科書や画像等で恐らく一度は目にしたことがあるであろう、ダヴィデ像を作成したミケランジェロを支援したのがメディチ家である。また、作品の解釈は異なるものの同様にダヴィデ像を作成したドナッテロも同様にメディチ家の支援を受けていた。当時のメディチ家当主より制作の依頼を受け、当時のフィレンツェの自主性を象徴する彫刻を作り上げた。
この他にもヴィーナスの誕生を描いたボッティチェリやアテナイの学堂などでも知られるラファエロ等将来歴史に名を残すような芸術家に対して支援を積極的に行い、芸術文化の発展に尽力していた。
<支援の特徴>
メディチ家の中でも最も大きな影響力を持ち、支援活動を行っていたとされるのがコジモ=デ=メディチである。
このコジモが支援の特徴は、「人を育てる」ことと「その事業に精通する」ことであった。古代ギリシャのアテネに哲学者プラトンが作ったアカデメイアに倣い、別荘を改装して人文主義者が集うプラトンアカデミーを設立。生活費の面倒や語学取得環境の整備などあらゆる面での亜ポートを行った。その結果、アカデミーはルネサンスヒューマニズムの基盤となった。
また、コジモ自身が学生時代に学んでいたのは本業の金融ではなく、人文学の分野であった。建築や音楽、芸術面などに造詣が深かったことが多大な支援に繋がっているのだろう。これにより自らの指示が作成活動に含まれていることも多々あり、サン・ロレンツォ聖堂工事の際、図書館の増設を要望しており、彫刻家のミケランジェロが設計を行っている。